ストーリーとヴィジョン

個人的なストーリーを語る事で、ヴィジョンは伝わるのか|実験1

あまり、このブログでは個人的な事や、会社の歴史などを書いてきませんでした。しかし、新聞やビジネス書でも「自社のヴィジョンを社員や外部に伝えるにはストーリーが必要だ」と言われています。どうやら、そうした方が良いみたいです。今までは、「お米のとけしとしての、会社の考えでーす」という書き方をしてきました。このブログでも。しかし、つまるところ、当社の場合、社長である僕が何をどう感じ、どう考えたかが当社の戦略です。それに気づいた時、組織の考えでーす風なふわっとした書き方は、自分の責任そのものをふわっとさせてるような気がしてきました。そこで、遅ればせながら、自分の経験をストーリーにしてみようと。そーゆーわけでございます。後継者として、どのように学んできたかという視点でもお伝えできればと思います。
前回、お米のとけしとしてのヴィジョンを整理しました。それが、こちらです。
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お米のとけしーWHAT(何を実現するか)

自由でシンプル、自己主張する米屋。単純な選択肢を提供。

お米のとけしーWHY(なぜそうするか)

沖縄のお米卸業界は伝統的に売上至上主義。強引な売り込みをやり合い、結果的に儲からない業界を作っている。
品揃えは他社と比較して、不足が無いようにするあまり横並びとなり、お客様から見て、米卸ごとの見分けがつかなくなっている。
言い換えると、他社に追随したり、他社のシェアを奪ったりという事に終始しており、どこも「我々はこういう会社です」という自己主張を
お客様に対してしてこなかった。我々は自己主張する。わかりやすく、自由な発想でお客様に貢献する。

 お米のとけしーHOW(どのように実現するか)

社員の仕事に裁量を与え、お客様との自由なコミュニケーションを奨励する。品揃えをあえて絞り、味の土台であるお米の、あるべき品質を主張する。独自のオペレーションシステム改善を行いより無駄の無いシンプルな業務を構築し続ける。

今回はそのヴィジョンに至った3代目としての個人的なストーリーを語ってみたいと思います。なるべく臨場感を大事にしたいと思います(笑)
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お米のとけしのストーリーを整理する

とりあえず、ストーリーの原型となる構造を持ったヴィジョンができました。ここからストーリーを整理していきましょう。僕も初めてやる作業です(笑)お米のとけしは、戦後沖縄本島に帰ってきた祖父が食料配救助からスタートした商売です。
レトロな風景

当時は最先端の産業だったんですね〜。米卸は。そこからだんだん規模を拡大。精米工場を作り、自分で精米する会社に。ちなみにこのブログをだらだらと書いているのは、3代目の渡慶次大賀と申します。話を戻しましょう。沖縄市で30年商売をしたあと、精米工場を作り、拠点を北谷町に移します。そのタイミングで2代目の父に会社はバトンタッチされました。しか〜し、このあたりで、沖縄の米卸業者も増え、価格競争も激化していきます。価格競争が激化して、収益が減った米卸業者はさらに売上が増えればなんとかなると考え、さらに価格競争を行い、米卸業界の収益力は落ち込み続けました。そして、平成24年に僕が入社しました。北谷町に拠点を移してからさらに30年が経とうとしていました。

後継者がどのようにして学習をはじめたか

な〜〜んかストーリーと言いつつも、固い文章ですね(笑)あまり自分の個人的な事をブログに書いてこなかったからだと思います。開き直っていったん個人的な事を書いてみます。この文章を書いている僕は令和元年11月現在で、36歳の男性です。もの凄い文系に偏った人間です。元々経営に強い興味があったわけではありません。しかし、大学に行くタイミングで専攻を決める必要がありました。それで経営学を選びました。一年生の時、「現代経営のしくみ」という授業を受けました。ジャック・ウェルチがどういう戦略を取っていたかなど、実例を学ぶプログラム。「アイディアや工夫がシンプルに儲けに反映される」その世界観をめちゃくちゃ面白く感じ、どんどんのめり込んでいきました。

後継者っぽく就職した

大学4年間は結構真面目に勉強しました。新規事業のビジネスプランを立ててはニヤニヤしてたのを昨日のよ〜に思い出します(笑)。ドラッカーも本が黄色くなるまで、読み込みました。で、とりあえず4年生になったのでモラトリアム期間は終わりです。米屋に就職しようかと、聞いてみると、感触がよくありませんでした。米屋の将来はさらに厳しくなるという見立てだったと思います。そんなわけで、就職活動に。それでも、最終的には経営者になれるだろうと、勝手に5年を目処に実家に戻るというキャリアパスを立てて、銀行に就職しました。銀行の面接でもそーゆー風に言いました。よく就職できたもんです。

銀行で学んだ事の大きさ

まともに働いた経験も無いくせに、謎の自信を引っさげ意気揚々と銀行員生活がスタートしました。これまでの人生で、仕事といえば、米をお中元に入れる作業や米の荷降ろし作業だったわけです。あとは家庭教師のバイトぐらしかしてきませんでした。謎のプライドも、半年も経つと綺麗になくなってました。この時期に叩きこまれた仕事はかくあるべし。とゆ〜ような仕事へのスタンスについて、先輩に徹底的に叩きこまれたのは大きな財産です。昼間の仕事もそうですが、夜の飲み方についても学びました。「カラオケは横浜アリーナだと思え」とは先輩の教えです。カラオケの作法としては、
①ソファは座るものではなく、ただのオブジェ。立ち続けること。
②他人が歌っている時はリズムに合わせて踊るべし。そして的確な合いの手を入れよ。
③自分が歌っている時に間奏のパートは、遠くを見つめ手を振りながら「アリーナー」と叫ぶ。
④いい感じに上司の歌う番が来るように、常にデンモクを支配下におけ。
、、、、、。すさまじい飲み方でした。冬場のカラオケでは、みんな立って踊るので、カラオケの窓が曇るという凄い状況を目撃した事もあります。飲み会でのコミュニケーションについて、強い耐性がつきました。日中の仕事では、窓口→個人営業→融資→債権保全と、5年半でひととおり経験する事ができ、営業ノウハウや経済の知識、実際の経営者が必要な財務の見方などを身につける事ができました。

東日本大震災の影響で入社

そんなこんなでハアハア言いながらも充実した銀行ライフを送っていたころ、父から銀行を辞めて入社するよう連絡がありました。東日本大震災の影響で、県内から東北にお米を送る人がたくさんいるため、スーパーに納品するための人手が足りてないとの事でした。そして僕の方はすでに転勤対象者にもなっていました。銀行は2〜3年で転勤していきます。次の支店に移動したあとすぐに辞めてしまった場合、かなり迷惑をかける事になるため、このタイミングで辞表を出させて頂きました。ちょうど、5年前に勝手に決めたキャリアパスのタイミングとドンピシャでした。

そして大赤字をくらう

入社一年目は東日本大震災の影響で、大幅な利益を出す、、、かに見えました。しかし、福島産のお米が風評被害によって流通が制限されると、お米の価格が全国的に急上昇します。この影響をまともに受けます。最大で一袋売るごとに、100円損するという信じられない状況までいきました。平成25年の決算では2,000万もの赤字を被ることになりました。

続く
、、、、。初めて続くで締めてみました(笑)。長くなったので、次回書きたいと思います。

 

 


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